今週の活動記録(2022年2月21日〜)

全体

今週はオンラインでのミーティングやウェビナーの聴講が多めだった。月曜日に都市美学関係の打ち合わせが一件とWOMEN: WOVENの次回イベントの打ち合わせが一件、木曜日に翻訳検討会が一件と東大の山本千寛さんがアンリ・ルフェーブルについてご講演されるのを聴いていた。こう書くとたった4件、そんなに多くないじゃん?というかんじがす流が、そもそも今週は天皇誕生日で4日間しか仕事できる日がなかったうえ、コロナ休園を食らってさらに1日減り3日間になってしまった。

そのほかやったことは大まかに2つで、ひとつは新書の準備。日常美学についての入門書だが、入門書でも自分の考えについても当然まとめる必要がある。今やっている章はだいたいプロットはできていて、そこをつないでいくための材料集めをしている。

もう一つは講義の準備で、ジョン・デューイ『経験としての芸術』そのものと、関連文献を読む作業。

ちょっと今、やることの種類が多くなりすぎているかんじがあるので、数を減らさないといけない。そのために、さっさとやれば終わることについては日を決めて一日で集中砲火的にやってしまい、やることを減らすべきかもしれない。

先日、子どもにたまごを見せたらものすごく喜んでいた。確かにたまごはとても美しいかたちをしている。

読書

Glenn Parsons, The Philosophy of Design (Polity, 2016)

新書の準備で再読。4年ぶりにきちんと読んだが、とにかく議論の筋がクリアで、育児しながら研究しないといけない休園の日でもメモを取りながらでも読めて感動した。モダニズムにおける機能主義の議論を哲学的に突き詰めていくさまは面白い。一切の表現を廃して機能的であることによって、むしろ対象が象徴性を帯びるという指摘は重要。

Glenn Parsons and Allen Carlson, Functional Beauty (Oxford University Press, 2009)

こちらも再読中。最初のほうの、美学史のなかで美と有用性がどのように結び付けられたり切り離されてきたりしたのかという整理が参考になる。今、わたしは主にイスという家具に注目して機能美について考えているのだが、哲学者はイスに座っている生き物だからなのか、機能美の歴史的議論のなかで具体例としてイスに言及されているケースはかなり多い。そしてよく見てみると、この本の表紙もイスが描かれているな。

西郷南海子『デューイと「生活としての芸術」: 戦間期アメリカの教育哲学と実践』(京都大学出版会、2022年)

デューイの思想がバーンズ財団とのコラボや、連邦美術計画などの実践のなかにどのように生かされていたのかを明らかにする書。特に連邦美術計画における、インデックス・オブ・アメリカン・デザインという取り組みが面白かった。18世紀後半から19世紀末までの日用品を手描きにて記録するもの。生活のなかに「芸術」を見出すデューイ的視点の実践と言える。私自身はデューイの『経験としての芸術』が日常美学の領域で参照されることの意義について考えたいのだが、この本は実践との関係のなかでデューイを捉える視点がとても参考になる。注やコラムから著者の息遣いが聴こえるのもたのしい。

ポエル・ヴェスティン著、畑中麻紀・森下圭子訳『トーベ・ヤンソン 人生、芸術、言葉』(フィルムアート社、2021年)

600ページを超すトーベ・ヤンソンの人生と仕事に関する詳細な記述。昨年、映画「TOVE/トーベ」を観たがそれはあくまでフィクション的な要素も強いとのことだったので、もっと詳しく彼女について読みたいと思って手に取った(スナフキンのモデルとなったと言われるアトスとの恋愛関係の終わりは映画では非常に抒情的であったが、実際はもっとドラマ性のないものだったようだHighmore)。奇しくもこれを読んでいる最中にロシアが戦争を起こしたが、トーベもまたロシアとフィンランドの戦争によってその人生や創作を方向づけられている。絵画を本業としつつ、ムーミンやその他の執筆をして暮らしていく、その際どこでバランスを取るべきか悩む彼女の姿は、研究者として生きる私にも共感を持って見つめられるものである。家族や恋人を大事に思い心を砕きながらも、つねに自由であろうとする態度も、強く共感できる。

小泉悠『現代ロシアの軍事戦略』(ちくま新書、2021年)

SNSでシェアされていたウクライナ人のことばで、ロシアとの戦争は今始まったのではなく、もう2014 年からずっとロシアはウクライナを痛め続けているのだというものがあった。ロシアの論理、すなわちNATOが加入国を増やすことで少しずつロシアに対して力を行使しているのだからそれを抑制したい、ということ、ハイブリッド戦争というタームが一人歩きするなかでそれでもやはりロシアはまだ実戦をベースと捉えていることなど、特に前半は分かりやすく理解できた。

映画

ノマドランド(クロエ・ジャオ監督、2021 年)

フランシス・マクドーマンド演じる主人公が暮らしていたまちネバダ州エンパイアは、工場閉鎖に伴いまちそのものがなくなってしまう。家とコミュニティを失い、また夫も失った主人公は、自家用車を家にして仕事を転々としながら暮らす。車の家は、劇中彼女が訪れる二つの立派な家に比べるとよるべなさを感じざるを得ないが、たとえそこが車であっても、自分の大切なものが詰まれた車のなかで、自分の心を自分の「家」と考える主人公。大切な皿が割れても自分でそれを継いで元通りにする逞しさ。自分の居場所をなんとか、ギリギリのところで守るその生活をロマン化する姉の視線。多分この話は、今書いている新書でも言及することになる。とにかくマクドーマンドが良すぎて大好きだということも再確認。

浮雲(成瀬巳喜男監督、1955年)

名作なのはわかるのだが、個人的にはきつかった。もちろん戦争が誰にとっても等しく傷になっているのだそうが、しかしそうだとしてもこれはただただ冨岡が嫌な男だという話としてしか受け止められず、愛とか悲劇とか何も感じられなかった。ただもうこれは好みの問題だと思う。

乱れる(成瀬巳喜男監督、1964年)

同じ成瀬でもこちらはすごく好きだった。スーパーマーケットが押し寄せてきて、もう「戦後」ではなくなろうとする時代に、戦争をどのように経験したかということに決定的なズレがある主人公たちがどうしても結ばれない様子。こちらは悲しい、と思った。清水から銀山温泉への鉄道の旅。「浮雲」の伊香保よりはっきりとその地名の理由などに言及される銀山温泉は、観光的なものの発展を感じさせる。結局すべてを失って家に残された、常にどうしていいかわからない母親はあのあとどうなるのだろうか。娘たちのどちらかが引き取るのだろうか。ところで私の母は1963年生まれ。清水と東京ではまた様子が違ったのだろうが、この頃すでに母が生きていたと思うと驚いてしまう。