アレン・カールソン「環境美学、倫理、そしてエコ美学」(2018)

JAAC環境美学特集号の紹介です。今回取り上げる論文は、

Allen Carlson (2018) “Environmental Aesthetics, Ethics, and Ecoaesthetics” The Journal of Aesthetics and Art Criticism 76 (4): 399-410

です。

著者について


アレン・カールソンは環境美学の先駆者的存在。彼が1979年に記した論文「鑑賞と自然環境」は環境美学の最重要文献の一つです。

彼は、

①〈自然を適切に美的に鑑賞するためには、自然についての常識的/科学的知識が必要である〉(自然鑑賞についての「認知モデル」と呼ばれる立場)

②〈手つかずの自然は全て美的によい〉(肯定美学(positive aesthetics)と呼ばれる立場)

という2つの主張を展開し、この彼の主張に対する賛成・反対の論文が多数書かれることで、環境美学という分野は一つの輪郭を獲得してきたと言えます。

彼の主張は一見して非常に強固なものに見えますが、彼は自然鑑賞のエキスパートとしてネイチャーライティングと呼ばれる自然に関するエッセイを書くような著述家を想定しています。そしてネイチャーライティングは、北米における環境倫理の基盤としても持ち出されるような作品群です。この意味で、彼の主張は普遍性を志向しつつも、その出どころ自体が極めて地理的・歴史的条件によって規定されたものであります。

詳しくは、以下の2つの拙論をご参照ください。

青田麻未「アレン・カールソンの自然鑑賞理論における美的性質 : カテゴリーのはたらきに注目して」(2015)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/bigaku/66/1/66_KJ00010008072/_pdf/-char/ja

青田麻未「アレン・カールソンのリーディングリスト : 現代英米圏環境美学におけるネイチャー・ライティングの位置」(2016)

https://ci.nii.ac.jp/naid/40021027359

論文の内容


この論文は10節構成。以下この節分けに従って紹介。なお節のタイトルも論文に付けられているものをそのまま使用。なお以下はすべてカールソンの主張のまとめであり、私自身が必ずしもコミットするものではありません。

1. 環境美学と環境倫理

・環境美学と環境倫理の間にはつながりがあり、環境美学が環境倫理にとって重要なものであるということはこれまですでに議論されている(Hargrove [1979]; Callicott [2008]; Hetttinger [2005]; Rolston [2002])。

・しかし、その「つながり」とは具体的にどのようなものだろうか。

2. 美学、倫理、芸術

・芸術に関してであれば、美学と倫理のつながりには大まかに言って2つの立場がある。「道徳主義moralism」と「自律主義autonomism」がそれである。前者の立場であれば作品に対する道徳的評価は美的評価に影響するが、後者の立場であれば作品に対する道徳的評価と美的評価は無関係。

・これらの議論が環境美学と環境倫理のつながりを考える際にも有効かどうかは、議論対象となる領域が芸術に似ている程度に依存する。

3. 人間環境と穏健な環境道徳主義

・自然環境から、人間が創造した環境、あるいは人間の影響を受けた環境まで、環境美学および環境倫理の議論領域は広い。

・もし先の2つの立場のうち「道徳主義」のほうがある種の芸術作品に関して有力な立場なのであれば、例えば都市の公園のような人間が作った環境については同じように道徳主義を適用することができるかもしれない。

・ただし、芸術作品が物語を持っているのに対して、公園には物語はない。それでも、公園が道徳的な意義を持つ美的性質を表現することはありうる。小さな公園はコミュニティへのケアの精神を、メモリアルパークのようなものであれば勇気や英雄主義を、そして廃墟のようになってしまった公園は怠慢や無関心を表現する。

・カールソンはこの立場を「穏健な環境道徳主義moderate environmental moralism」と名付ける。この立場は、公園のみならず、幅広い種類の人間環境に適用可能であるとカールソンは言う。

これは、人間が創造したか、あるいは人間の影響を受けた環境は、しばしば道徳的に重要な美的性質を表現することができ、そしてそのような環境が適切に美的に鑑賞されたとき、この種の美的性質は適切な道徳的評価を生じさせうると考える立場である。この場合、環境美学と環境倫理は、美的鑑賞が鑑賞対象についての倫理的判断の基礎を提供する、という意味でつながっている。(p. 401.   拙訳)

4. 自然環境と自律主義

・人間環境(人間が作ったか、人間の影響を受けた環境)は、程度の差はあれど、芸術作品同様に人間の影響力の下にあるため、道徳的性質を表現することができる。しかし、原生自然は人間の影響力を受けていないため、この種の環境が持つ美的性質は道徳的に重要な美的性質ではない。ゆえに、穏健な環境道徳主義を自然環境に適用することはできない。

・自然環境については「対立候補なしの自律主義autonomism by default」を取ることになる。普通の自律主義は美的領域と道徳的領域の2つを想定したうえで両者を切り離すが、そもそも自然環境に関しては道徳的領域なるものは存在しないから、必然的に美に関して自律主義を取ることになる。だから、対立候補なしの自律主義。

5. 自然、環境美学、環境倫理

・自然環境の場合には、自然に対する肯定的な美的評価が、自然を保護するという道徳的義務のための基礎を築くと環境哲学者たちによって論じられてきた。

・だがしかし、自然の美しさと自然保護が結びついているということは、環境美学と環境倫理のあいだのつながりを構成するだろうか?

・この点に関して、ホルムズ・ロルストン3世は「美的責務aesthetic imperative」というアイディアで応答している。ロルストンは、「Xは美しい」という事実は「Xは良い」という場合と同様の重さを持つものだと主張する。ゆえに「自然は美しい、だから自然を保護する」は「自然は良い、だから自然を保護する」と類比的なものである。

・だがカールソンによれば、このロルストンの主張のもとで結果として美的責務と道徳的責務が同じく自然保護に向かうとしても、美的責務そのもののうちに道徳的責務が含まれているわけではない。両者はあくまで類比的なものであるに過ぎない。ゆえに、ロルストンの主張を受け入れても環境美学と環境倫理のつながりが確保されるわけではない。

・そこで、自然の内在的価値に訴える議論も出てくるが、それもうまくいかない。

…もし自然それ自体が内在的価値を持っているのであれば、自然を保護し守るという義務はいかなるものであっても道徳的義務である、という主張のための基礎があることになる。しかし、この場合、道徳的義務は自然の内在的価値から直接に導出される。この道徳的義務は自然の美的鑑賞や美的価値から導出されるものではなく、またしても環境美学と環境倫理のあいだのつながりは確率されない。(p. 403. 拙訳)

6. 道具的価値と自然の美的鑑賞

・では今度は、自然の道具的価値を単に資源として利用できるというような意味に限定せず、自然を美的に鑑賞する人々にもたらされる美的経験の価値をも含むようなものとして理解すれば、美学の位置を確保することができるだろうか。つまり、自然の美的価値そのものではなく、自然における美的経験の持つ価値をてことして環境美学と環境倫理を結ぶことは可能か。

・この線で行くと、自然の美的経験ないし鑑賞とは何かを説明する必要があり、これについて環境美学はすでに多様な理論を打ち出してきている。それらは大きく分けて、「認知主義」と「非認知主義」の2陣営に分けることができる。

①非認知主義:自然に関する認知的リソース以外のもの、例えば自然への参与や情動の喚起、想像力などを美的鑑賞にとって不可欠なものとする立場。代表的論者はアーノルド・バーリアント。彼は自然を客体、鑑賞者を主体に分離するモデルではなく、自然のなかに鑑賞者が参与している状態として自然の美的鑑賞を説明する。

②認知主義:自然に関する認知的リソース(知識や情報)が自然の美的鑑賞には不可欠であるとする立場。カールソン自身がこの立場の代表的論者。知識の中でも、とりわけ地理学、生物学、生態学のような科学的知識が重視される。芸術鑑賞に知識が必要なのと同様に、自然についても鑑賞対象に関する知識が必要だと考える立場。

7. 自然の美的鑑賞と環境倫理

・では、2つの陣営のうちどちらのほうが、美的鑑賞から自然を守るという道徳的義務へのつながりを担保するという目標に近いだろうか。

・すでにロルストンも指摘するように、バーリアントに代表される非認知主義が描く美的鑑賞はあまりに個人的で、文化相対的すぎるのではないか、すなわち客観性を欠いているのではないかという問題がある。これは自然保護という道徳的義務へのつながりを担保するという目標にとってはマイナス。

・これに対して認知主義は、客観性に関する問題はクリアしており、すでに多くの環境哲学者によって環境美学と環境倫理とをつなぐ立場として期待されている。しかし、この立場にも問題がないわけではない。この立場のもとでは、自然鑑賞の客観性は科学的事実に依存している。すると、次のような事態に陥る。

この場合、美的価値から道徳的価値への移行が可能になった代わりに、事実に関する美的関心factual aesthetic interestから道徳的価値への移行が難しくなっていると言われるかもしれない。これは、事実と価値をつなぐ試みという、倫理学における伝統的な問題に似ているような問題であるだろう。(p. 405. 拙訳)

8. エコ美学

・今直面している問題とは次のようにまとめられる。自然環境が善悪の手前にあるのならば、自然環境それ自体が環境美学と環境倫理とのつながりのためのとっかかりを提供してくれるようには見えない。代わりに人間の美的経験が持つ価値によって両分野のつながりを基礎付けようとしたが、認知主義にも非認知主義にも問題がある。

・そこでさらなる代替案として、エコロジカル美学、あるいはエコ美学と呼ばれる最近の議論に注目してみる。ただし、この分野も一枚岩ではなく、同じ言葉の元に様々な立場が包摂されている。先にあげたバーリアントの非認知主義とカールソンらの認知主義は、どちらもエコ美学と呼ばれることがある(Cf. Toadvine [2010])。

・非認知主義と認知主義が結びつくことで、より包括的なエコ美学を提示できるとも言われる。認知主義は非認知主義が抱える客観性の問題を補い、また主客の区別を拒否する非認知主義は事実と価値の二分法をも無効化することで、認知主義に別の道を与えてくれるかもしれない。しかし、この可能性について考えるためには、両陣営の単純な結合ではなく、より強固なエコ美学を検討するほうがよさそうだ。

9. 中国のエコ美学

・中国の学者Xiangzhan Chengは中国的なエコ美学のための4つの基本原理を挙げている。

①「人間と世界との統一の観念を促進する美的参与のモデルを取ること」

②「エコロジカルな美的鑑賞は、エコロジカルな倫理に基づく美的活動である。」

③「趣味を洗練し、平凡なもののうちに隠された豊かな美的性質を享受するためにエコロジーの知識に頼ること」

④「エコロジカルな美的鑑賞にとってのエコロジカルな価値を導く2つの原則は、生物多様性とエコシステムの健全性。人間は、人間中心的な美的選好・習慣を反省し批判することで、人間中心的な価値の標準と人間的な美的好みを乗り越え、超越しなければならない。」

→①③を含んでいるため非認知主義と認知主義を結合させている。さらに、西洋の議論では提示されていない②④の観点も提示する、環境保護のための包括的なプログラムを提示している。

…①の原理によって、事実と価値のあいだに重要なギャップは存在せず、それゆえ③の原理から②の原理へ、つまり美的鑑賞におけるエコロジーの知識の重要性からエコロジカルな倫理の重要性へと移行するための試みも必要ない。それぞれの原理はただ、エコ美学でありうるものの本質的な要素として前提されている。この意味で、中国のエコ美学では、環境美学と環境倫理は一方から他方への移行によって結びついているのではない。むしろ、両分野は単に一つの全般的な立場のうちに埋め込まれることによって結合されているのだ。(p. 407. 拙訳)

・ただし、例えば①の原理の妥当性に関して反論がありうる。①は西洋の伝統的な事実と価値の区別をあっさりと捨て去り過ぎているのでは、と。しかし、このような反論はポイントを外している。西洋では、事実から価値への移行に問題があるとされてきた。しかし中国の議論では、そもそもこうした「移行」という考え方はない。中国のエコ美学は、単純に、ある目的を達成するために協働しうるものとして事実と価値を一つの立場のうちに初めから含み入れている。この視点は、現代の環境問題にとっても重要なものである。

10. 結論

・この論文では、環境美学と環境倫理の関係に関して4つの筋道を提示した。

①人間の影響を受けた環境については、芸術と同様に道徳主義を取れば環境美学と環境倫理は結びつく。

②自然環境については美的責務、内在的価値の2つの概念を検討したがこれでは環境美学と環境倫理はつながらない。

③自然における美的経験の持つ価値という観点から考えると、美的経験を規定しなければならないが、認知主義にも非認知主義にも問題がある。両者を結合すれば道は拓けそうだったが、事実と価値に関する問題は残る。

④中国のエコ美学は、認知主義と非認知主義のコアとなる考え方を取り入れつつ、事実とかちの関係に関して西洋とは別の視点を提示している点で優れている。

論文に対するコメント


私はカールソンの主張を相対化することにずっと取り組んでいるわけですが、今回はカールソン自身が彼を含めた西洋の環境美学を中国美学によって相対化しようとしており、その点は面白い。ただし、中国のエコ美学もまた西洋(というか英米)の環境美学に影響を受けて発生しているものであることには留意する必要がある。中国の学者たちは、英米の環境美学を学んだうえで、中国の伝統を見直して独自の主張を立てようとしており、彼らの目はすでに西洋を知らない「無垢な目」ではないことに注意すべきだ。

しかも、事実と価値を一体化させること自体がはらむ道徳的含意にもちょっとした恐ろしさを感じる。だから、Chenの主張は有意義だね、で終わってはいけないと私は考える。とはいえ面白かったのは、Chenの言う2つめの原理で美的鑑賞が美的活動である、と言われている点は興味深く、対象を知識に基づいて美的に評価するというある種静的なカールソンのモデルに、鑑賞者の主体的行動の契機をより深く読み込むためのヒントになりそうな気がする。これは原文を含めてよく確認する必要がある。