グレン・パーソンズ「自然美学と尊敬論法」(2018)

JAAC環境美学特集号、2つめの論文はGlenn Parsons, “Nature Aesthetics and the Respect Argument”です。

著者について


グレン・パーソンズは、カナダ・トロントにあるライアソン大学哲学科の准教授です。

彼はカールソンと同じ科学的認知主義、すなわち〈自然の適切な美的鑑賞には、自然に関する常識的/科学的知識が必要である〉という立場を取る論者です。そして環境保護に資する美学をつくるという目的もカールソンと共有しています。

ただし、パーソンズはカールソンの単なるフォロワーではないです。それがもっともわかるのは、次の論文だと思います(逆算するとこれはパーソンズが31歳の時の論文っぽいですね)。

https://academic.oup.com/bjaesthetics/article-abstract/42/3/279/19457?redirectedFrom=PDF

この論文でパーソンズは、カールソンが打ち出す〈手つかずの自然はすべて美的によい〉と言うテーゼをカールソンはやらなかった方法で擁護します。その主張への是非は置くとしても、彼のような論者の存在は認知主義を間違いなく活性化しています。

パーソンズの環境美学に関する本は以下。基本的に科学的認知主義推しではありますが、入門書としても読めるものです。

それから、カールソンとの共著で機能美に関する本も出しています。この本は機能美の歴史をサーベイし、さらに応用的に自然や芸術作品、日常の品についても機能美の観点から論じています。

それから、近年ではデザインの哲学の本も。これも読みやすくいい本でした。

論文の内容


以下の節分けは元の論文に従うもの。また以下「論文の内容」で言及する主張は全てパーソンズのものであり、私がコミットするものであるとは限らない。

0. 導入
・過去40年にわたって自然の美学に関して、〈我々は自然をいかに美的に鑑賞すべきか?〉という規範に関する問いが議論されてきた。これは哲学的関心だけではなく、環境マネジメントや保護の観点をも含む問いである。

・この論文では、この問いに関する特定の答えを提示するのではなく、この問いを議論する際に用いられる「尊敬論法」を検討する。

・尊敬論法の典型例:「自然それ自体の観点から鑑賞することappreciating nature on its own terms」、すなわち対象に対する尊敬を持つことが適切な美的鑑賞には必要。これに失敗している鑑賞は不適切、というかたちで、尊敬の有無によって適切な鑑賞とそうでないものを分けるのが尊敬論法(Cf. Saito [1998])。

1. 尊敬論法に対する挑戦
・尊敬論法に対する反論①:尊敬は人間やその他の理性的存在者に対して向けられるものであって、自然に対して適用されるものではない。
→ここではこの反論にこれ以上立ち入らない。我々は理性的存在者以外の存在者も尊敬することができるというのは、少なくともありえることだ。

・尊敬論法に対する反論②:尊敬のような道徳的考慮は、美学における規範的問題に対して無関係である。
→道徳的考慮が美的規範に対して常に無関係であるとは限らない。第一に、環境に対する人間の影響力の大きさに直面している昨今、自然に関する我々の思考において道徳的配慮の重要性は思うよりも大きい。もしかすると、美的判断に見えているものが実際には我々の道徳的態度の反映以上のものではない、と言う可能性もある。第二に、特に道徳的な価値を含むような芸術作品に関して、道徳的考慮を美的鑑賞のうちに含めることを認める美学者がいる。

2. 行為と尊敬
・まず、尊敬論法における「尊敬」という概念を明確化する必要がある。尊敬にはいくつかの種類があるが、自然に対する尊敬は「認識-尊敬recognition respect」であろう(Cf. Darwall [1977])。認識-尊敬は、対象の持つある特徴を適切に重み付け、その重み付けにふさわしい仕方で行為すること。

・しかしそうなると、尊敬論法に対する「行為がない問題no action problem」が生じる。美的鑑賞は実際のところ単なる知覚や観想であり、対象に対して何かをするという通常の行為ではない。となると、この種の尊敬は自然に対する行為に対して制約を課すとしても、美的鑑賞に対しては何の制約も課さない。

3. 2つの応答
・行為がない問題に対する尊敬論法からの応答は、2通りある。
①美的鑑賞と、自然に対する行為との間の因果的つながりを主張する。「それ自体として鑑賞すること」は究極的には我々の自然に対する行為を制限する。
→問題点:十分に強固な因果的つながりを確保するのは難しい。

②美的鑑賞も実際には行為の一種であると主張する。
→問題点:となると、例えば性的な妄想がすでに他者を「利用」していると糾弾されることがあるように、鑑賞も問題ある行為である可能性が出てくる。

4. 尊敬の2つの側面

・前節のように鑑賞が行為につながるとか、鑑賞も行為だと主張するのではなく、尊敬の概念が行為のみならず鑑賞にも一貫して適用可能であることを示すことで、尊敬論法を擁護することが可能である。

・尊敬の持つ2つの側面に注意を向けることで、別の路線を行くことができる。我々は尊敬とは対象によって要求されるものと考えがちだが、尊敬は主体によって与えられるものでもある。この2つの側面を意識する。

・主体の側面を考慮すると、尊敬とは単に対象の要求を満たす行為のうちに示されるだけではなく、主体の心の開かれopennessのような心的傾向のうちにもある。美的鑑賞のような観想的活動において、たとえ観想が実践的目的から解放されていて行為が不在であっても、心の開かれはその基礎に存在している。

・だとすれば考えるべきは次のこと。行為から切り離された文脈において生起する尊敬の態度のうちに、道徳的メリットがあるかどうか。もしこの場合にも道徳的メリットがあるならば、対象の本性に従順であると言う心的傾向のうちにもそれは残っているだろう。

・心の開かれは例えば禅文化などで重要視されているが、西洋人が自然の美的鑑賞について議論するに当たっては、この姿勢がより広く共有された価値システムのなかで評価されていること、そして自然の美的鑑賞という行為から切り離された文脈でもこの姿勢を見せることに道徳的メリットがあることを示さなければならない。

・斎藤は自然鑑賞における「それ自体の観点から」の重要性を説くに当たって、芸術鑑賞において我々は「我々の観点から」の見方を押し付けず、作品という対象を受け入れて「それ自体の観点から」鑑賞するという事例を挙げていた。だが自然について考えるに際して、芸術よりももっと「我々の観点から」の鑑賞でも良さそうな事例を挙げて、それを元に尊敬論法の妥当性を吟味する必要がある。

5. 行為から切り離された尊敬の価値
・芸術以上に「それ自体の観点から」ではなく「我々の観点から」見ても良さそうな事例として、「目くらましの建築deceptive architecture」の鑑賞と、自分の車をレーシングカーだと思いながら運転する男についての思考実験が検討される。詳細は割愛。結果として自然鑑賞における尊敬論法について言えることは以下。

①すでに自然それ自体の観点からみたときの価値を経験したことがあって、おおよそ自然をそれ自体として扱いつつも「我々の観点から」自然を鑑賞することにはそれほど大きな問題はない。例えばナチュラリストが土地についての科学的理解に基づいた美を見出したあとで(これは「それ自体の観点から」の鑑賞)、自分の空想を織り交ぜながら土地を見ても(これは「その人の観点から」の鑑賞)問題はない。

②一方、アルド・レオポルドが嘆いたように、我々の多くは実際のところ先のナチュラリストのように「それ自体の観点から」自然を美的に鑑賞する方法を知らない。そうであるならば、そもそもこうした状況を嘆いた美学者たちによって用いられた尊敬論法は、「自然鑑賞についての我々のありふれた習慣に対する批判を供給する」(p. 417. 拙訳)という役割を担うものである。

 論文に対するコメント


4節で斎藤による芸術と自然の類比を挙げたのち、芸術よりももっと「それ自体の観点から」鑑賞しなくても良さそうな事例を考えなければならないとさりげなく述べられているが、これは環境美学史から見て非常に重要な指摘。というのも、パーソンズも属する認知主義の論者は、基本的に芸術鑑賞において成立している規範(=芸術に関する知識があると適切な鑑賞ができる)を自然鑑賞にもスライドすることができる、という論理を用いている。だが実際には、芸術鑑賞に比べて自然鑑賞はそこまで規範がはっきりと示される類のものではない。認知主義者側からこのような指摘がなされたことには意義を感じる。

規範の内容そのものではなく、規範を提示する際に用いられる論法のほうに注目する、という研究のスタンス自体も非常に面白いと思った。しかし、こと「尊敬論法」に関してこのような方法を取ることができるのかは疑問に思った。

というのも、パーソンズ自身が認めているように、尊敬論法とはそもそも「対象をそれ自体の観点から鑑賞すること」を重視することで、我々の既存の自然鑑賞の慣習を批判的に見る視座を提示するものであった。これは取りも直さず、我々の既存の自然鑑賞は何らかの点で不適切ないし不十分である、という前提に立ったうえで提起されるものである。この意味で、そもそも尊敬論法を用いる論者は、メタ的なレベルでの規範、すなわち〈より適切な仕方で自然を鑑賞するべきだ〉という規範にコミットしている。そしてこの規範に従うことができるかどうかは、結局のところ「適切な仕方で」の具体的な内実による。パーソンズは、対象に対する尊敬の念を持っての鑑賞=「それ自体の観点から鑑賞すること」の「それ自体の観点」が意味するところについては、具体的な美的鑑賞の規範に関するものなのでこの論文では扱わないとしているが、尊敬論法に妥当性を認められるかどうかは結局この「それ自体の観点からの鑑賞」=適切な鑑賞が我々に何を要求しているのかにかかっているだろう(ex. 科学的知識を要求しているのか、神話の知識を要求しているのか、など)。