ジェニファー・ヴェルヒマン「自然の美学、構成的善、環境保全:穏健な形式主義者の美学の擁護」(2018)

JAAC環境美学特集号、3本目の論文はJennifer Welchman,”Aesthetics of Nature, Constitutive Goods, and Environmental Conservation: A Defense of Moderate Formalist Aesthetics.”です。

著者について


ヴェルヒマンは、アレン・カールソンも勤務していたカナダのアルバータ大学人文学部哲学科の教授。

専門は倫理学で、ジョン・デューイに関する博士論文を仕上げたのち、プラグマティズムに軸足を置きつつ倫理学の研究を行なっている。環境倫理に関する論文も多数あるようです。

論文の内容


以下、節分けは本文に従う。なお「論文の内容」で言及する主張はすべてヴェルヒマンによるものであり、必ずしも私自身がコミットするものではない。

1. イントロダクション

・科学的認知主義をとる論者、すなわち〈自然を適切に美的に鑑賞するためには、常識的/科学的知識が必要である〉と主張するアレン・カールソンやグレン・パーソンズは、形式主義を批判する。

・彼らによれば、自然鑑賞において、形式主義は「フレーミング」の問題を避けることができない。自然にはフレームがないので鑑賞対象があらかじめ境界づけられておらず、形式主義者は芸術作品の場合のようにコンポジションを見定めることができない。結局、知識すなわち自然物を理解する際のカテゴリーが、自然のコンポジションを見出すための信用に足る基盤となる。

・さらに、形式主義者の自然美学は(1)人間中心的、(2)眺めの良い景観狂い、(3)表面的で些末である、(4)主観的、(5)道徳的に意味がない、などと言われる。こうした状況に対し、ヴェルヒマンは「穏健な形式主義者の美学」であれば、自然美学に関して少なくとも間主観的なコンセンサスを形成することができるし、またそれは人間の生という観点からみて道徳的に意義があることでもあると主張する。

2. 穏健な形式主義と自然の配置の美的鑑賞

・クライブ・ベルのように、美的鑑賞には形式のみが関わるとする極端な形式主義に対して、現代の美学者であるニック・ザングウィルは穏健な形式主義者に位置付けられる。

穏健な形式主義は、自然物や自然の変化過程processesの美的鑑賞は、知覚可能な構成的諸性質に集中するが、しかしこれに制限されるわけではない。対象やパフォーマンスの知覚的諸性質に依拠するいかなる美的性質も、その美的鑑賞において重要なものとなっているだろう[と考えるのが穏健な形式主義である]。さらに、穏健な形式主義者たちは、対象やパフォーマンスが属する種や、コンテクスト、関係性などを知っていることが、時折直接にそれらの近くに影響を及ぼしうるということを進んで認めている。(pp. 421-422. 拙訳)

・それでもカールソンら認知主義者は、形式主義は自然をあたかも二次元的な形式的性質からなるものとみなす傾向にあると批判する。ザングウィルはこれに対して形式主義者も三次元的なものを鑑賞することができると応答しているが、ヴェルヒマンはより積極的に、すなわち二次元的対象や三次元的対象のみならず、自然の「パフォーマンス」も穏健な形式主義の立場からは鑑賞できると主張するという。

・ほとんどの芸術作品は、物体objectsかパフォーマンスかのどちらかのカテゴリーに属する。そしてそれぞれのカテゴリーに属する作品は、もう一方のカテゴリーにおいては比喩的にしか帰属されえないような知覚的性質を持ちうる(物体であれば角度、色、深さなど。パフォーマンスであれば突然さ、不協和、穏やかさ、持続、リズムなど。)

・自然にも、物体的なもの(山頂、氷河、森など)、パフォーマンス的なもの(寄せては返す波、春雨のあとに咲く砂漠の花、渡り鳥の移動など)、両者が合わさったミクストメディア的なもの(サンゴ礁の生態学的共同体など)がある。

・芸術と自然との違いは、後者の場合、どのカテゴリーを選択するかは鑑賞者にかかっているという点。ノヴァスコシアの海岸を歩くとき、そこにある小石(=物体)に集中することもできれば、波の動き(=パフォーマンス)に注目したりそれらを合わせた光景(=ミクストメディア)を鑑賞することもできる。しかしこのような自由のもとでは、認知主義者の言うように、フレーミングの問題が生じてしまうのだろうか。

・ヴェルヒマンは、フレーミング問題は穏健な認知主義のみならず科学的認知主義にも等しく問題であると主張することで、穏健な形式主義のみがこの問題に答えなくてはならないわけではないと主張する。それでも、穏健な形式主義のように自由に自然鑑賞の境界を決めるべきではない、と言う論者はやはりいるだろう。ノヴァスコシアの訪問者の多くは見た目の良くないものには注意を払わず、わかりやすく表面的な特徴にばかり注意を向けるだろう。まるでイージーリスニングのチャンネルでしかベートヴェンを聴かない人が、彼の作品全体を聴こうと努力することがないように。しかしヴェルヒマンは、だからといってこうした態度が自然保全のための美的・道徳的動機を欠くとは限らないと主張する。

3. 構成的善、人間の繁栄、正義

・カールソンは、自然の美的評価は客観的に保証されたかたちで提示されない限り、道徳的・政治的説得のための実質を持たないと述べていた。ヴェルヒマンによればこれは間違い。

・我々が今、自然は美的に価値あるものではないという美学理論を手にしていて、しかもそれに皆が納得しているとしよう。政治的にリベラルな社会における政策立案者は環境保全には傾かないだろう。彼らが、自然の美的鑑賞がもたらすものは人間の幸福や繁栄に貢献すると信じていない限りは。もし彼らがそのように信じていれば、たとえ個々の事例において個別の価値の客観的査定ができないとしても、美的に価値ある自然を守ろうと試みるための十分な理由を持つことになるだろう。

政治的にリベラルな社会において、環境保護論者の目的にとって決定的なのは自然の美的価値に関する主張の客観性ではない。決定的なのは、人間の繁栄にとっての美的鑑賞の重要性に関する主張の客観性なのだ。あるいは別の言い方をすれば、美的考慮が環境をめぐる議論において説得的であると示されるためには、美的鑑賞(自然の美的鑑賞を含む)が、皆が何を望んでいたとしてもそれを望む理由を持つ人間の繁栄(ロールズ的に言えば、ある種の「基礎的善basic good」)にとっての構成的善であると判定するための理由を供給できなければならない。(p. 424. 拙訳)

・ヴェルヒマンはここで、アリストテレスによる善の区別に依拠する。究極の善である幸福は、個々に内在的な価値を持ちながら同時に幸福の構成要素となる構成的善(快、健康、友情など)によって構成されている。構成的善は、その善さが個人的な趣味ではなく事実によっているよいう意味で、「客観的」でもある。先の例の他に、知識、美、文化も、人間存在の繁栄を客観的に構成する善として認められている。

・だが、美の鑑賞が構成的善の一種であったとしても、趣味が異なるために、自然が我々にとってと同じように未来世代にとっても美的に価値あるものであるかはわからない。だとすれば、自然を保護することは人間の繁栄にとっての構成的善という観点からは支持されえないのでは?

・これに対してヴェルヒマンは、美的に異なる様々な物体、パフォーマンス、それらの組み合わせを豊富に残しておくことは、意義あることだと述べる。人間は飽きやすいものだが、しかし新奇性や多様性は時間を超えて美的鑑賞という構成的善を実現するために不可欠。それゆえ、趣味が時代とともに変化するものであるという意味で主観的なものであったとしても、保護のための道徳的理由は失われない。

4. 結論

・穏健な形式主義はすべての自然が美的に価値があるとは主張しないので、全ての自然に対して保護の美的根拠を与えることはできない。しかし、動的でパフォーマンス的な自然の美的性質に注意を向けることで、穏健な形式主義は保護の議論のうちに立ち位置を確保できる。穏健な形式主義は、美的にも倫理的にも、認知主義に見劣りすることのない立場である。これまでの穏健な形式主義の問題は、理論においてというよりも実践のほうにあったと言えるので、実際に自然のパフォーマンス的側面により注意を向けることで、不安定さを矯正し、よりよくこの立場の利点を示せるようになるだろう。

論文に対するコメント


・議論にはかなり疑問が残る。美的鑑賞が構成的善であるとしても、他のものではなく自然を保護する理由がどこにあるのか。自然を破壊して形式の優れた建物をたくさん建てておけばいいという話になりかねないのではないか。どこかで、自然の破壊が不可逆的な行為であるなど、別の前提が入り込んでいそう。

・彼女の議論自体は納得のいかない部分も多いものの、形式主義の見直し自体は非常に重要な作業だろう。というのも、カールソンら認知主義者は形式主義を批判しつつ、自然物や風景の持つ形式をどのように解釈するかという問題に固執している点で、別の意味で形式主義的な理論にとどまっている。またヴェルヒマンが最後に言及していることとも関係するが、カールソンらは基本的に、理論としてというよりも実践としての形式主義(ピクチャレスクツアーや、その伝統につらなる観光者の態度)を批判している。実践としての形式主義批判に、ベルなどの理論としての形式主義をくっつけて一緒に批判しているので、論点がぼやけている。このあたりの話は、いずれ私自身が論文にまとめようと思っていて、準備しているところ。