斎藤百合子「消費者美学と環境倫理:問題と可能性」(2018)

JAAC環境美学特集号、今回は日常美学で有名なYuriko Saitoによる論文、”Consumer Aesthetics and Environmental Ethics: Problems and Possibilities” (2018)の紹介です。

著者について


著者である斎藤百合子は、現在ロードアイランド・スクール・オブ・デザインの教授です。日本のご出身ですが、キャリアはアメリカで築かれており、ご著書や論文も英語でのみ読むことができます。

斎藤氏は、日常美学(everyday aesthetics)と呼ばれる分野の立役者のひとりです。日常美学とは、われわれの日常のなかでの感性のはたらきを論じる分野です。日常の美的経験というときそもそも「日常」や「美的」の意味ってどうなってる?という原理的な問題を問う研究もあれば、日用品や、掃除といった行為など個々の対象に焦点を当ててそこに含まれる美的なものを分析する研究もあります。

斎藤氏が日常美学の重要性を説く背景には、単にこれらが面白い対象であるから、というだけではなく作品概念を中心として展開される西洋美学に対するひとつのオルタナティブを提示するという意図があります。ゆえに斎藤氏の著作は日本の包装文化など、日本人から見て馴染み深い話題がたくさん取り上げられています。

これまで著作は2冊。

1冊目のEveryday Aesthetics (2007)はまさに日常美学誕生のころの書物であり、斎藤氏が分野を立ち上げようとする気概が感じられる書籍。2冊目のAesthetics of the Familiar (2017)は、1冊目から10年を経て様々に巻き起こった日常美学をめぐる論争に斎藤氏が応答しつつ自説を掘り下げていく書籍。個人的には、現在の日常美学の状況を知りたいということであれば、2冊目から読んだほうがいいのではないかと思っています。

また、いきなり英語は、、、という場合には同志社大学の外山悠さんが斎藤研究をされており、その成果を読むことができます。外山さんの論文は他にもありますが、以下の「関西美学音楽学研究会」のジャーナルで読むことができます。

https://aesthetics-musicology.jimdo.com

論文の内容


以下は論文の内容のまとめ。各々の主張は元の論文のものであり、本ブログの筆者に帰属するものではありません。

1. 美学対環境

・通例、環境によい態度や実践と美学は反対の方向に作用するようにみえる。ここで言う美学とはpopular aesthetics、すなわち一般の美的感覚くらいのことを指している。野生の花々による庭やソーラーパネル、風力発電機などは環境に優しいが、見た目にはよくないものだとしばしば批判される。

・この論文で主題とするサステイナブルな消費を可能にする製品も、しばしば(一般に言う意味で)美的に劣っていると言われがち。分解可能な素材でできた洋服(biodegradable dressで検索するといろいろ画像出てきます)など。

・このように美的な魅力がない商品は、強めの環境保護主義者であれば買うかもしれないが、平均的な消費者には選ばれず、ゆえにゴミが生み出されていく。満足されることない美的欲望は、新しくてファッショナブルなものを消費者が追い求めていくことで悪化していく。

・ファストファッションはその好例。安くて見栄えの良い商品が生み出されているが、真のコスト、すなわちその生産過程における環境への負荷は隠されている。

・アパレル産業に従事しつつ環境に対する意識の高い人々は、環境負荷が低くしかし同時に美的な魅力を持ち合わせたデザインを考案しているが、ファストファッションが生み出す環境問題を減ずるほどにはなっていない。

2. 美的なものと道徳的なものの関係

・消費美学がサステイナビリティに反抗しているとして、我々はどうすればいいか?一つの方法は、美的なものが消費者の生活において果たす役割をいかなるものであっても非難し、環境に関する問題はとにかく倫理的な問題である、ということにするというもの(=美的自律主義)。

・斎藤はこの方法を取らない。なぜならば、美的なものの中核が対象の持つ感覚可能な見かけにあるとしても、この種の知覚はほとんどいつも対象についての認知的考慮を含み混んでいるから。たとえば、ある対象が環境にかける負荷を知ったあとでも、これを知る前と同じ美的判断を下すことが可能だろうか?斎藤はこの問いかけにNoと答える。つまり、美的なものと道徳的なものは不可分なかたちで結びついている(=美的道徳主義)。

・だがなぜサステイナブルな消費実践を鼓舞するために、美学を巻き込むことが重要なのだろうか?斎藤はシラーの美的教育に言及しつつ、感性が我々の意思決定や行動のための強力な動機づけになると言う。環境を意識した実践としてのサステイナビリティは、美や快のような肯定的な経験によって可能になる心理的なサステイナビリティによってサポートされる必要がある。

・では消費美学のパラダイムシフトはいかにして可能となるか。第一の道は、「反消費主義者美学anti-consumerist aesthetic」。一度は素晴らしいものに思えていた商品が、環境にかけている負荷のためにだんだんと醜いものに見えてくる、というような仕方でのパラダイムシフト。斎藤は、このような否定的な美的判断にひもづくアプローチは一種の禁欲主義を促進し人々の抵抗に合う可能性があると言う。そこで斎藤が取る第二の道は、「代替的な快楽主義alternative hedonism」。このアプローチのもとでは、サステイナブルな商品を魅力的、すなわちファッショナブルなものにすることができる美的性質を同定される。次節で斎藤は、デザイン学者や実践家によってよく提案されるサステイナブルな美学の要素を3つ挙げる。

3. 消費物のためのサステイナブルな美学

3A. 儚さと耐久性

・人は物を最初の状態に保ちたいと願い、経年劣化の兆候を修繕などで覆い隠そうとする。これは「物の見た目を可能な限りはじめの状態に近いように保て」という美的命法が暗に機能しているから。

・これに対して日本の「金継ぎ」による器の修繕、あるいは漁師の着物のつぎはぎなどは、物の儚さを受け入れ、変化する見た目を受け入れることで物の耐久性を維持している。その美的効果のために、博物館に飾られることも。

・また他に、人は物は購入時点で完成しているものだ、と強く信じている。だがこの態度は、物が空間的にのみならず時間的にも存在するという事実を見過ごしている。

3B. 物に関連づけられた物語と個人的なつながり

・物の耐久性の話題は、単に物理的な側面ではなく、「文化の持続可能性」という話題とも結びつく。

・グローバル経済においては、例えばファストファッションのように、消費者と商品の起源とが地理的にも心理的にも距離をとっている状態。そこでは共感が欠落する。

・これに対して「地産地消運動local food movement」は、食べ物を供給する農場と消費者との距離を近づけている。このつながりによって、消費者が食べ物の味や食感をよりしっかりと味わうようになる。食べ物と我々が結びついているという感覚は、食の経験における美的な鮮明さprofileを高める。商品にまつわるポジティブな物語は、美的魅力を高めるのだ。

・だがこのような消費者と個人との結びつきに基づく美的判断は、客観性を持ちうるだろうか。確かに我々は芸術の場合に、芸術批評家が単に個人的な事情に基づいて作品を判定することを望まない。しかし、日用品の場合には、まず使用者の生きられた経験のなかでその物が持つ価値が重要となる。

3C. 物を価値づける

・現代の商品と消費者の関係は、マルティン・ブーバーのいうI-It関係に当てはまる。だから、人は完全に立派な状態にある衣服を、ただ美的欲求を満たさないという理由で捨てることができる。このような態度はポスト資本主義社会の産物であり、ワンガリ・マータイによって唱道されたMottainaiの精神もあまり根付いていない。

・この状況に対して、斎藤は物をアニミズム的に見るような道を取るのではなく、美的価値のより全体論的な見解holistic viewを推し進めようとする。この見解はすなわち、美学の伝統的な概念である無関心性を消費美学の基盤として不十分であるとみなし、美学的言説もまた消費美学の環境に対する帰結に関する議論に参加すべきである、と考える立場。

・そのために、消費者がアンリ・ルフェーブルのいうような受動的な存在、すなわち購買に関する決断を広告などの装置によって支配されている状態から抜け出さなければならない。広告が提示する美的基準に従うのではなく、別の美的基準によって商品を見定める必要がある。

論文に対するコメント


いつものように日本の例もうまく使いながら、消費を取り巻く美的規範の変革をねらう斎藤らしい論文だった。最後のほうで、物を命あるもののように扱うアニミズム的態度は取らない、と明言していたが、この部分などを見るとアメリカでのKonmariブームとは一線を画したいのかな、という推測が働く(単なる推測)。

上のまとめで取り上げなかった事例もたくさんあり(一頭の羊の毛のみで作られたセーターなど)、読むのが楽しい論文ではあるのだが、実際のところ消費の局面において美的なものがどれだけ機能しているのか、ということに目を向けてもう少し問題を掘り下げる必要があるように思う。自分の買い物を顧みると、確かにある一定の価格帯までは美的な選択でどれを買うか選んでいるが、ある価格帯を超えるとたとえかっこよくても買えない、という現象が起きてくる。私もファストファッションに頼ることがかなりあるが、それは正直ファストファッションのめくるめく広告にやられているというより、「白いセーターが欲しいが、今はどうしても5000円以上は出せない」などといった経済的制約による選択であることも多い。何万円も出せるなら、被災地のサステイナブルな経済的自律を目指すという物語を持ち、しかもファストファッションに比べて(その物語抜きにしても)美的にも優れている「気仙沼ニッティング」のニットとか私も買いたいが、そのような消費は私には不可能なわけだ。

だから、美的基準の変革を通じて環境問題の解決や消費社会の変革をも目指すのであれば、そもそもこの経済システムを現行の美的基準がどの程度強化しているのかを、なるべく正確に見積もり、そこを起点として規範の提示の仕方を工夫する必要があると思う。サステイナビリティに寄与する商品とか、エシカルファッションとか呼ばれるものは、取り組みは素晴らしくとも現状高価格であることも確か。金継ぎだって、正直かっこいいけどその費用かけるなら安い食器を買い直すことしか経済的にできない、という事情も出てくるかもしれない。そうなると、結局いくら我々の美的基準が変化しても、「素敵なものは買えないなあ〜」で終わって社会的効力がない、という話になってしまうだろう。