パオロ・ダンジェロ『風景の哲学 芸術・環境・共同体』

パオロ・ダンジェロ『風景の哲学 芸術・環境・共同体』を、訳者である鯖江秀樹先生からご恵投いただきました。イタリアの美学者によるこの本には、英米系環境美学を真正面から取り上げていて、しかもそれをゲルノート・ベーメなどドイツの自然美学の系譜とも比較したうえで、ダンジェロ自身の視点も展開されている非常に守備範囲の広い本です。この手の本で、しかもこの読みやすさを保ったもので日本語で読めるものはいままでなかったと思うので(というかこういう守備範囲の広さを持った本は英米系からもドイツ系からも出ていないような)、この本が翻訳されたことはしあわせなことだと思います。なので、小さい読書録をここに記しておこうと思います。

この本において、ダンジェロは「風景」という概念の復権を訴えており、これは環境美学者からみてとても面白い点です。実際のところ風景という語をどう定義するのかは環境美学者によってまちまちなのですが、ダンジェロが正しく指摘するように、環境美学の先駆者のひとりアレン・カールソンは風景ではなく環境として世界を捉えることの必要性を訴えています。風景として世界を捉えるというのは、ポストカードの絵柄になるような、あるいは今で言えばインスタ映えのような(?)、絵になる構図や色彩を持つ箇所を切り取ることを意味する、とカールソンは考えます。けれども、実際には世界は我々の視線によって切り取ることが不可能な、内的な連関を持っています。写真に写った富士山はきれいだけれども、その写真では見えないものーーふもとの地域や、あるいは小さすぎて写らないその山のなかの動植物ーーと生態学的なつながりを有している。そうした「つながり」をきちんと考えにいれるために、我々が切り取る風景としてではなく、つながってどこまでも広がっていく環境として世界を見るべきなのだと、さしあたりカールソンはこのように考えるわけです。つまりカールソンからすれば、我々は「環境」を「風景」へと還元せず、その全体を捉えるべきなのだということになります。

これに対してダンジェロは、むしろカールソンのほうが「風景」を「環境」へと還元してしまっていると主張します(39ページ)。これはとても面白い主張だと思います。ダンジェロはこの「還元」をカールソンひとり、あるいは英米系環境美学に帰すのではなく、1970年代から1990年代という時代の傾向として解釈しています。それは美学という学問内部のみの話ではなく、法制度や行政機関など実践における傾向でもあったということを、ダンジェロはイタリアの事例から振り返ります。環境こそが新しい世界の捉え方であって、風景という概念は古臭いものであるという潮流に対して、ダンジェロは風景概念の持つより豊かな含みを再定義することで応答します。風景とは文化的な風景、つまり歴史的推移や文学的記憶、芸術的表象を物理的なかたちではなくともイメージの次元で含んでおり、さらにはそこに住む者、あるいはやってくる者や去る者の経験とも不可分な仕方で結びついたものであると彼は考えます。カールソンのような生態学的な、つまり科学的な見地のみから適切に捉えうるものとして世界を見る態度のほうこそ、還元主義的だというわけです。

もちろんいくつか補足したくなる点もないわけではありません。たしかにカールソンが(その分析美学的スタイルも手伝ってなのかもしれませんが)ある種の普遍主義的見解、すなわちいかなる文脈においても科学的知識が適切な美的鑑賞のためのキーとなると主張することには問題がないわけではなく、この点についてはすでに私も複数の箇所で指摘してきました。ただ他方で、もともとのカールソンのモチベーションはむしろ、科学の称揚というよりも、ネイチャーライティング(自然についてのエッセイ)の書き手たちの感受性への信頼の喚起にあったのだと考えるほうが自然であり、だとすると(それが北米主義的であったとしても)彼こそむしろダンジェロがいう意味での文化的な「風景」を立ち上げることで環境美学を開始したとも取れなくはない。もっともこれはカールソンに対してものすごくチャリタブルな読み方をしたときに出てくる帰結なわけですが。

しかしダンジェロの議論は重要なことをたくさん述べていて、特に私は風景とはたんなる「美しい眺め」として人間が意のままに切り取るものを指すのではなく、むしろ〈ある場の美的アイデンティティ〉とみなされるべきだという彼の主張に同意します(200ページ)。さまざまな要素を含み込む場所の美的な特徴として取り出し可能な「風景」とは、自然的要因、歴史的要因、人間による修正などの影響を受けており、確かに人間による所産でもあるけれど、そうであるとは言い切れないようなハイブリッドなものだとダンジェロは考えているのだと私は解釈します。そうした包括性、あるいは私たちの意のままに理解可能ではないものとして世界を捉える態度を、彼は風景ということばの使用によって確保しようとしていると考えられます。このことはとても重要だと思います。

私は現在英米系環境美学についての単著を準備していて、そこでは実は風景ではなく環境という語を徹底して用いているのですが、しかし考えていることの方向性はダンジェロとかなりかぶる部分もあるのではないかと感じています。だとすれば、私もこの語の使用問題をもっと根底的なものとして引き受けて、自分なりに再考してみることが必要だと思いました。

また上で触れられなかったのですが、この本の第2章で風景表象としての映画というメディアの可能性が考察されていて、この部分も興味深く読みました。というのも、英米系環境美学が写真や絵画など視覚的メディアを避けたがる一方で文学には強く依拠しようとする傾向にあるのをみて、メディアごとに私たちの環境経験に対する影響力が違いうるという問題に強く関心を抱いていたからです。ダンジェロの挙げている映画はほとんどまだ見ていないものだったので、実際の映画と付き合わせつつもう一度よく読みたいと思います。

こうしたきっかけを与えてくださったこの本と、訳者の鯖江先生に感謝します。