光文社新書より『「ふつうの暮らし」を美学する 家から考える「日常美学」入門』刊行

光文社新書から、光文社新書より『「ふつうの暮らし」を美学する 家から考える「日常美学」入門』という本をつい数日前に刊行しました。この本は、2000年代以降、現代美学の一分野として議論されるようになった「日常美学(everyday aesthetic)」という分野についての入門書です。

この説明だけでも、すでに2点注釈したいなということがあります。

まず、日常美学は基本的に「新しい」と形容されますし、実際本格的に議論がされるようになったのは21世紀になってからです。この本も、日本語においては、日常美学について単一の著者が書いている本としては極めてめずらしいものだと思います。

しかし、世界的な水準で見ると、日常美学はもはや「新しい」ものであるというにはやや標準的な思考モデルになりすぎているように思います。そもそも、伝統的な美学の主要な話題であった芸術の枠の外に出てるとはいえ、まさにそれゆえに美的なものとはなにかを問い直すということは、不可避的に美学の伝統的な諸問題に継続して取り組むことでもあります。ですから、日常美学は美学者からみて、二つの意味で「新しくはない」ものだとさえ言えます。

もうひとつ注釈したいこととして、この本は「入門書」であり、基本的には基礎知識がなくても読めるものです。とはいえ、日常美学の「定説」のようなものを紹介する、という体裁ではありません。なぜなら、まずこの分野は(先に言ったことと矛盾するようにみえるかもしれませんが、やはり)新しいということもあり、定説と呼べるものはありません。また、そもそも日常美学の論題は芸術と自然以外のものすべて、とさえ言えるほど広く、一冊の本ですべてを網羅することはできません。

そこでこの本は舞台を家とその周辺に絞りました。また重要な理論はなるべく多く紹介していますが、しかしそれらのどれかを正しいと主張するわけではないですし、それぞれの話題にかんしてわたし自身の主張を展開してもいます。その意味では、少しだけ変わった入門書、とも言えるかと思います。

光文社新書のnoteでは、この本の「まえがき」が公開されています。

掃除、料理、ルーティーン……何気ない日常を哲学すれば毎日に少しだけ意味ができる|家から考える「日常美学」入門

しかしそこでは各章の内容についてそこまで書いていないので、このブログではかる〜く、この本は何をしているの?というのを紹介したいと思います。

序章 日常美学とはなにか

ここでは、そもそも日常美学とは何かを、本書の議論に先立って大枠で説明しています。とはいえ、そもそも日常美学という聞き慣れない分野がいったいなんでわざわざ誕生したのかを理解するためには、美学とはなにか?がわからないとなので、そこから可能な限りで説明しています。

ここでいきなり他の方の書いた本の紹介なのですが、拙著をお読みになる/なった方はぜひ、ちくま新書から出ている井奥陽子さんの『近代美学入門』を読んでください。そうすると、近代に誕生した美学と、現代の日常美学のあいだのつながりがよくわかると思います。

あとは、本書は「家」に注目したいけれども、それは狭い意味での「住宅」に縛られないかもしれないし、誰と住むのかとかどこに住むのかとかを基本的には前提しない議論をします、ということを書いています。

第1章 機能美ー椅子を事例として

ここでは、多くの芸術作品とは違って生活のなかで「使われる」モノのが、その機能ゆえに持っている機能美というものについて考えています。この章では、椅子を取り上げたいくつかの展覧会の話から始まり、18世紀のイマニュエル・カントに遡りつつ機能と美の関係についてこれまで言われてきたことを整理しています。

そのうえで、先行研究は基本的にモノの機能美を個々のモノ単体でみたときをモデルにして議論をしていますが、家という場では、個々のモノはほかのモノとの関係のなかで機能を発揮しているので、そこを勘案した機能美の議論が必要なのではないかと本書では論じています。

第2章 美的性質ー掃除や片付けを事例として

この章では、現代美学において「美」や「崇高」といった伝統的な美的なものだけではなく、さまざまな日常的な語彙が美的なものとして捉えられていることを、(部屋が)「きれい」「汚い」といった性質も美的だと言えるのではないか?という日常美学の議論を追っています。

そのうえで、芸術家が完成させて私たちの前に差し出してくれる芸術作品とは異なり、掃除や片付けは私たちが自分で行う行為であり、「きれい」も「汚い」もその結果であるということに注目し、自分のスタイルの確立という観点からこれらの美的性質の位置付けを再定義しています。

第3章 芸術と日常の境界ー料理を事例として

この章では、伝統的には美学において「芸術」とはみなされてこなかった料理について、なぜそれが「芸術」ではないと考えられてきたのか、そして逆に現代ではなぜ「芸術」とみなされつつあるのかということについて、美学史を紐解いています。

そのうえで、家での料理も「芸術」と言いうるのか?ということを、家庭料理制作と芸術制作の相違点に注目することで再検討し、やはり「芸術」と呼ぶのには抵抗があるという話を書いています。

第4章 親しみと新奇さー地元を事例として

この章では、日常美学におけるかなり大きな議論の焦点、すなわち「親しみ(familiarity)」という、パッと目を引くわけではないけれども私たちの生活の穏やかさを形作る感情について先行研究を見ています。

そのうえで、日常というものは親しみを感じつつも、そのなかに新奇さを見出すという両輪で回っていて、たとえ慣れ親しんだ地元でも工夫次第で新奇さを見出すことができるのではないか?ではその工夫ってどんなものがあるのかな?というのを考えています。

第5章 ルーティーンの美学ーvlog鑑賞を事例として

この章では、日々の日常生活を支えているルーティーンについて焦点を当てています。ルーティーンは平凡さの象徴とされているけれど、果たしてそうなのか?ルーティーンを構築・維持するときに、私たちは美的=感性的な工夫をしているのではないか?ということを考えています。

特にこの章では、vlogという動画形式で日常を綴る媒体に注目しています。私自身が育児で生活崩壊中にvlogにハマった経験を引き合いに出しつつ、上述の問題を検討しています。

終章 家と世界制作

最後の章では、家について考えてきた本書の議論は、家を起点に世界へと広がっていくこと、感性には世界をつくる力があることを述べて、本書を終えています。

かなりざっくりとしたまとめですが…

博論を改稿した前著を出した4年前、ちょうど妊娠中でした。その子どもが生まれてきて、私の生活は激変したわけですが、本書はそうした日常の経験すべての反映だと思っています。正直にいってこの本で扱っている話題は簡単なものではありませんが、しかしそれらをすんなりと理解し考えていけるようなものにできるよう、実体験や例の話を充実させることで工夫したつもりです。

ぜひ多くの皆様に手に取っていただければ幸いです。

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