全体
2月が終わり、3月が始まった。そろそろこの春休み中にできることはどこまでなのかをよくよく考えて行動しなければならない時期になった。そのためにもまず、手をつけているが終わっていないタスクの数を減らすことが重要ではないかと考えた。そこで今週は、ほとんど1つのことに集中してみた。それはジョン・デューイ『経験としての芸術』を通読しなおすこと。新学期、この文献を講読するのだが、まだどの章を読むべきなのか悩んでいたので。とはいえやはり、3〜5章を読むことにはなるだろう。そのほかは適宜、私が講義のなかで言及するかたちになるだろうか。
これ以外は、ジュディ・シカゴを中心的に扱う講義2回分の準備を終えた。今週はこれでかなり新学期に向けての準備が進んで、見通しが見えてきたので、精神的には楽になってきたが、同時に新書の執筆が止まってしまっているので、来週はこれを再開させてメインタスクに据えつつ、そのほかまだ微妙に終わっていなくてモヤモヤする作業を進めることになるだろう。
読書
黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』(中公新書、2002年)
ぬくぬく読書をするのはどうなのかと思いつつも、しかしそれができる自分は少しでも何か知ることから始めたい。それでこの本を手に取った。スキタイ文化にまで遡る圧巻の情報量だった。近現代において、ウクライナが何度も独立を阻まれてきたこと、それにはこの地の地政学的重要性が絡んでいたことなどを学ぶ。またロシアとウクライナの文化的交流の側面も大事だと思う。チャイコフスキーはウクライナを訪れて創作の源泉を得たりしていたらしい。ロシアのウクライナ侵攻は許容されるべきでは断じてないが、しかしロシアの作曲家のコンサートを控えるなどの文化のうえでの対処は、少し慎重に考えられるべきではないかと思う。
私はベルリンの壁崩壊のころ生後2ヶ月、ソ連崩壊のころは2歳になったばかりのはずである。何も記憶にない。そのときの世界の衝撃はどのようなものだったのだろうか、ということも考える。
ジュディ・シカゴ著、小池一子訳『花もつ女:ウエストコーストに花開いたフェミニズム・アートの旗手、ジュディ・シカゴ自伝』(PARCO出版、1980年)
講義準備にて。男性中心主義的な芸術界において、女性は女性であるというだけで、その地位の改善のための活動を余儀なくされてしまう傾向にあるという指摘は本当にそうだと思う。女性であるというだけで支払うべきコストがあるということ。1972年のウーマン・ハウスでの創作過程は特に、女性として表現するということにどう向き合うのかということの記録であり、ここを講義でゆっくり読むことに決めた。
ジョン・デューイ著、栗田修訳『経験としての芸術』(晃洋書房、2010年)
講読は邦語で行う予定なので(英文は私が適宜言及)、こちらで通読。デューイの建築論が面白いのではないかと思う。建築と日用品のあいだの彼の態度の微妙な違いを感じていて、そこを起点に彼の美的経験論をよりよく理解し、その日常美学におけるポテンシャルについて正当に評価できるようになるのではないか。このような見立てで研究を進めたい。
Elisabetta Di Stefano, “CARCERAL AESTHETICS. ART AND EVERYDAY LIFE IN PRISON” Popular Inquiry 2: 67-77. 2021.
https://iris.unipa.it/retrieve/handle/10447/528262/1265750/DI%20STEFANO_Carceral%20Aesthetics%20POPULAR%20INQUIRY%202021.pdf
監獄のなかでの絵画制作などの芸術活動が、収監者の日常生活に与える影響について。日常美学は最近、「日常」とは結局誰にとってのものなのかという観点の見直しが進んできているようすで、この論文もその路線といえる。この論文でもデューイが引用されていて、環境と人との相互作用として芸術を捉えること、また美的なものをいわゆるアーティストの制作する「芸術」の限定しないことが、監獄での芸術制作を解釈する視点となると言われている。こういうデューイへの言及をいっぱい集めてきて、日常美学におけるデューイの位置付けについて整理したい。
映画
金子雅和監督「リング・ワンダリング」(2022年)
「東京の土地」に眠る忘れられた人々の物語が現在と交差する、という説明で、これは今後やりたい研究にとっても重要かもしれないと、イメージフォーラムに足を運んだ。結論から言うと私が思っていたのとは少し違った。もちろん、第二次世界大戦の東京、現代の建設現場など、「選手村」という単語で仄めかされる東京オリンピック2020など、東京は一つのテーマではあるのだが。しかし過去と現在の交差はテーマとして確かにあるが、sぽのなかでそこまで東京性みたいなものは強調されていなかったと感じた。御神木やニホンオオカミなども、記号的に用いられているように感じられ、土地や自然の記憶というテーマのもとで見てもあまり新味は覚えなかった。
岨手由貴子「あのこは貴族」(2020年)
ようやく観られた……とにかく逸子のことが頭から離れない。彼女があれだけ自由に生きるための手に職もまた与えられた環境によるものであって。しかも華子はするりと逸子のお手伝いをして、結局暮らせているようなのをみると、自分の自転車をあくせく漕いで走り回る美希からはやはり遠い。