学振PDの出産・育児⑦PD最終年度の就職活動

私はもともとPD残り期間5ヶ月というときに採用中断に入ったので、2021年1月に出産してすぐの4月には2022年度の行き先を決めないといけませんでした。

そこでまず取り組んだのは、学振RPDヘの申請です。制度については学振HPで確認していただいたほうがよいですが、自分かパートナーの出産を理由に研究活動にブランクが開いた人が対象となるものです(ブランクの長さとか、出産から何年以内とか、規定があるので注意)。学振PDと同じで3年間給与と研究費を確保できます。

私が申請した年は申請書フォーマットが大きく変わり、これまでDC1とPD合わせて3回(PD一度落ちているので)申請してきましたが、なかなか準備に手間取りました。そもそも、生後2〜3ヶ月の子どもの育児を担いながらだったので、大変なのは当たり前ですが…。

そのほか、5月くらいからは少しでも掠りそうな公募には積極的に応募しました。でもこれも、大学ごとに求められる書類が全然違っていて、育児しながら締め切りを一つ一つ守っていくのはとても大変でしたし、プレッシャーでもありました。

学振RPDは採用内定が8月と少し早めに出るので、これが出たときは来年保育園やめないで済む、、、と本気で安堵しました。ですがその後、現在の所属先にご縁があり、RPDは辞退となりました。

育休中に就活は本当にきつかったですが、でもポスドクの就活問題は別に育児していなくても大変なやつなので、育休中だったから大変だったかどうかは定かではないです。本当に公募書類はもっと簡略化されていくべきだと思います。

学振PDの出産・育児⑥保育園のはじまり

2021年9月、子が生後7ヶ月半のときに保育園に入園した。6月ごろ、認可外保育園の空き状況をチェックして、もともと見学していた家近の保育園に空きがあったのでHPのフォームから問い合わせ。電話がかかってきて、枠が押さえられたと言われたので6月末に書類などの手続きをした、と思う(記憶曖昧)。我が家の保活はこれだけでした。シンプルすぎる。これでよかったのかはいまだに不明ですが、子どもも楽しそうなのでいいかなと思います。

9月1日から3日間の慣らし保育を経て、通常の通園がスタートしました。

ただ、私は学振の「研究再開支援期間制度」を使っていたので(詳しくは過去記事)、最初は火曜〜金曜の4日間だけ、お迎えも基本は16時30分と早めに行くようにしていました。なので体感仕事時間が短い。それに、だいたい最初の4ヶ月くらいはなんやかやで月2〜3回は体調不良で休まれていましたね。なので、仕事できたのは月に15日あるかないかですかね…そんなもんだと思っておいたほうがいいかなと思います…。

ただ年明けて週5フルタイムにしたころから、子どもの体力もついてきて休まれることは滅多になくなり、2〜3月はコロナ休園以外は皆勤してくれました。これで一気に私!!仕事している!!というかんじが高まってとても嬉しかったのを思い出します。

学振PDの出産・育児⑤産育休的な期間のこと

実際に学振PDという身分で出産をし、育児休暇的なものを取得してどんな感じだったか、私個人の経験を書き記しておく。最初に言うと、私はたぶん周囲の手助けに恵まれているほうで、夫は2週間だけど育休的な期間を取り、在宅勤務をメインにすることで朝や夜の育児を担ってくれた。実母と実妹が近くに住んでいて、どうしてものときは子どもを見ていてくれたので、オンラインでの仕事も細々できた。

ただそれでも、率直に言って、結局育児に専念できるわけではなくダラダラと研究や講義をせざるを得ない「エセ育休」、しかも学振PD最終年度で就活もしないといけないという状況には、それなりに精神を追い詰められたと思うし、このときじわじわと負ったダメージから立ち直るには大変に長い時間がかかった(具体的には2年以上調子が戻らなかった)。

2020年11月

月初より学振PDの採用中断期間に入ったが、採用中断期間中に非常勤講師含めそのほかの仕事をすることが妨げられていないため、非常勤の講義を3コマ続けていた(リアルタイムオンライン1、オンデマンド2)。あと、採用中断期間は研究専念義務は解かれるものの、研究する自由は奪われないので、ふつうにオンラインでPD先のゼミに参加していたし、原稿もモリモリ書いていた。ただとにかく健康な妊婦だったのと、コロナでオンラインばかりだったからできたことだと思う。

2020年12月

まだ研究していた。翌年の業績がなくなるとブランクを開けたことが明白になり困るという思いがあり、査読論文を投稿した。それから依頼されていた原稿や、年度内のオンデマンド講義の準備を終わらせた。1月上旬出産予定だったので、早めに生まれてくることに備えて12月23日にすべての仕事を切り上げ、12月24日のクリスマスイブからは基本的に映画を見たり好きな本を読んだり散歩して過ごしていた。

2021年1月

ところが子どもが待てど暮らせど生まれてこず、予定日を10日近く超過。さすがに暇になり、原稿の手直しや、レポートの採点を進めていた。結局、ここまでに生まれなかったら計画入院ね、と言われていた1日前に、原稿を直し終えたころから陣痛が本格化した。でもなかなか陣痛の間隔が10分以内にならず、結局6時間くらい悶え苦しんだ。朝6時に産院に着いたら、もう子宮口が十分開いているので麻酔打てますと言われる(無痛分娩です)。私は麻酔がすごく効いたほうで、テレビを観てたら初産にしてはペースが早い、と言われ、昼過ぎには生まれた。

退院後、最初はさすがに何もできないのではないか、と思っていたのだが、私の場合は無痛分娩が本当によかったようなのと、あとはたぶんアドレナリンが出ていてそこまで体力の消耗を感じなかった。なので、子どもが寝ている隙にレポートの採点とか読書とか、産後1週間ちょっとでもう始めてしまった。今思うと、このときおとなしく本など読まないで寝ていればよかったと思うが、もうそうせずにはいられないように生まれついているので仕方なかったかなとももう。

2021年2月

あまり記憶がない。いったんレポートの採点も終わって非常勤の仕事もなくなり、仕事から一番遠ざかっていたときかもしれない。

2021年3〜4月

ここが一番辛かった。と言うのも、別記事で書くが学振RPDの申請期限が4月中旬にあり、申請書の準備を始めたからだ。これは出産前にもっと計画を練っておくべきだったと今になってすごく後悔している。とにかく3時間おきに夜も起きているという状況で、夜中最後の授乳が終わって朝4時ごろに申請書を書こうとして立ち上がれず、ボロボロ泣いたこともあった、というかほとんど泣いて過ごしていた。

しかも4月中旬には講演仕事も再開した。すごくいい経験だったのでやってよかったと今でも思っているが、講演前に搾乳しようとトイレへ行ったらすでに母乳がめちゃくちゃ漏れていて絶望したりした(服が乾きやすい素材だったのと、スカーフを巻いていたのでよかった…)。

2021年5月〜8月

学振RPDの申請書を提出したあとも、いろんな公募にチャレンジしていた。子どもは幸いまとまって寝るようになったので、夜やるか、母や妹に来てもらってまとまった時間を捻出して書いたりしていた。ただ、後半はコロナがかなり深刻化して、ワクチンの順番がなかなか回ってこなかった母と妹には頼れなくなった。もちろん出かけられない。屋外と言っても、真夏の暑さで赤ちゃんを連れて歩くのもできない。しかも子どもはだんだんと手がかかるようになっていく。公募以外にも、細々と引き受けた原稿や講演の準備を、とにかく空き時間があればやるしかない。それでだんだん心が萎れていって、しょっちゅう泣いていた。9月に保育園が始まったときは、一筋の光が射した…!と本気で思った。

こう書いてみると、休みの期間ほとんど泣いていたんじゃないかという気がするが、でも子どもはいわゆる「手のかからない子」で、正直育児自体で悩むことは少なかったほうではないかと思う。また私は産前産後とも、家族のおかげもあって、体調についてはかなり安定していたので、体力が枯れてしまうということもなかった。これらは本当に人によって違う点だと思うので、それゆえ私の体験談全般がなんら一般化可能性を持たないものであることを留意されたい。

メンタル不調の原因はもっぱら、学振最終年度で就職や研究業績についてものすごい焦りがあったことではないか。出産によるホルモンバランスの変化とか、育児という未知のタスクが加わったことももちろん無関係ではないだろうけれど。

学振PDの出産・育児④出産に向けてのその他の手続きや保育園見学

これまで出産に向けて、学振PDの採用中断制度に関する手続きと、非常勤講師先への連絡について書いた。この記事では、そのほかポロポロとあったやるべきことについて書いていく。

諸手当

だいたい「出産 もらえるお金」と検索すると、一般的に出る給付金やそのための手続き方法が出てくる。そのうち妊婦健診費の補助については、私の自治体では母子手帳を受け取りに行くと自動的に一緒にクーポンがついてきた。それを検診のたびに使っていくが、すべての費用をカバーできるものではないし、私の場合は子どもが予定日を超過して検診回数が増えたので最後は全額自腹とかになっていた。

次に出産育児一時金という健康保険に紐づく手当があり、これは学振PDでももらうことができる。私の場合はこの一時金を私の手元にではなく、国保から私が出産する産院に直接振り込んでもらうという方法だった。これは産院から案内に従っていれば自然とそうなって、手続きもそう難しくなかったと記憶している。

最後に、ふつう仕事をしている人なら出産手当金と育児休業給付金というのがもらえるようなのだが、当時は学振PDは学振とも所属大学とも雇用関係になかったのでもらえなかった。

現在の学振ではいろいろ制度が変わっているようなので、私のときよりもだいぶ状況はいいのかもしれない。

そのほかお金まわり

そのほか私がやったお金まわりのことは、まず、国民年金保険料の産前産後期間の免除制度への申請。出産予定日又は出産日が属する前月から4ヶ月間分の年金の支払いが免除となる。この期間のぶんは追納しなくても、老齢基礎年金の受給額に反映される。なので絶対やるべき。出産予定日の半年前からできるので、早めにやっておくといい。

もうひとつが、私の場合は日本学生支援機構の奨学金を返済しているので、これについて産前・産後休業及び育児休業の期間、返済を停止する手続きをした。この期間のぶんは単純に停止なので、あとで返済しなければいけない。なので、別に資金に余裕のある場合は停止はしなくてもいいのかもしれないが、とにかく学振PDはすべての給与支給がこの期間停止していたので、少しでも心理的余裕がほしくてこの制度を利用した。

なお、人によってはパートナーの扶養に入る検討をする必要があるかもしれないが、私の場合は出産する年の見込み収入も扶養は超えそうだったので、この件についての手続きは知らない。

保育園見学

1月出産予定、11月から学振の採用中断期間に入り、そこから一応2件だけ保育園の見学に行った。ちなみに私の保活はゆるゆる系で、結局認可外で空きのある保育園に0歳児年度途中で入園→以降も継続してそこに、というかんじで全然力が入っていないので参考にならないと思う(いまだに保活の仕組みがわかっていない、いつかは認可に転園も…?とか思ったりすることもあるけど、正直家からとても近くて気に入っている園なので動かない可能性が高い)。

一応、夏ごろに母親学級に参加したついでに、区役所の窓口で学振の説明をして保活について話を聞きはしたが、そもそも学振PDという身分の謎さが云々という以前に、0歳児年度途中入園希望で認可園は多分難しいから、とりあえず認可外に入って1歳のときに認可に転園する方針を強く勧めると言われた。それで、まあそういうもんか〜〜となって、認可外の園を2つだけ見学した。

ただパンデミックの最中だったので、見学と言っても園生活の様子はどちらも全然見られず、説明を聞いて、質問コーナーをして、おしまい。年度途中から入りたいのですが、と話して、そうなると具体的にどう動くべきなのか各園のやり方を聞けたのはよかったかもしれない。

今週の活動記録(2022年2月28日〜)

全体

2月が終わり、3月が始まった。そろそろこの春休み中にできることはどこまでなのかをよくよく考えて行動しなければならない時期になった。そのためにもまず、手をつけているが終わっていないタスクの数を減らすことが重要ではないかと考えた。そこで今週は、ほとんど1つのことに集中してみた。それはジョン・デューイ『経験としての芸術』を通読しなおすこと。新学期、この文献を講読するのだが、まだどの章を読むべきなのか悩んでいたので。とはいえやはり、3〜5章を読むことにはなるだろう。そのほかは適宜、私が講義のなかで言及するかたちになるだろうか。

これ以外は、ジュディ・シカゴを中心的に扱う講義2回分の準備を終えた。今週はこれでかなり新学期に向けての準備が進んで、見通しが見えてきたので、精神的には楽になってきたが、同時に新書の執筆が止まってしまっているので、来週はこれを再開させてメインタスクに据えつつ、そのほかまだ微妙に終わっていなくてモヤモヤする作業を進めることになるだろう。

読書

黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』(中公新書、2002年)

ぬくぬく読書をするのはどうなのかと思いつつも、しかしそれができる自分は少しでも何か知ることから始めたい。それでこの本を手に取った。スキタイ文化にまで遡る圧巻の情報量だった。近現代において、ウクライナが何度も独立を阻まれてきたこと、それにはこの地の地政学的重要性が絡んでいたことなどを学ぶ。またロシアとウクライナの文化的交流の側面も大事だと思う。チャイコフスキーはウクライナを訪れて創作の源泉を得たりしていたらしい。ロシアのウクライナ侵攻は許容されるべきでは断じてないが、しかしロシアの作曲家のコンサートを控えるなどの文化のうえでの対処は、少し慎重に考えられるべきではないかと思う。

私はベルリンの壁崩壊のころ生後2ヶ月、ソ連崩壊のころは2歳になったばかりのはずである。何も記憶にない。そのときの世界の衝撃はどのようなものだったのだろうか、ということも考える。

ジュディ・シカゴ著、小池一子訳『花もつ女:ウエストコーストに花開いたフェミニズム・アートの旗手、ジュディ・シカゴ自伝』(PARCO出版、1980年)

講義準備にて。男性中心主義的な芸術界において、女性は女性であるというだけで、その地位の改善のための活動を余儀なくされてしまう傾向にあるという指摘は本当にそうだと思う。女性であるというだけで支払うべきコストがあるということ。1972年のウーマン・ハウスでの創作過程は特に、女性として表現するということにどう向き合うのかということの記録であり、ここを講義でゆっくり読むことに決めた。

ジョン・デューイ著、栗田修訳『経験としての芸術』(晃洋書房、2010年)

講読は邦語で行う予定なので(英文は私が適宜言及)、こちらで通読。デューイの建築論が面白いのではないかと思う。建築と日用品のあいだの彼の態度の微妙な違いを感じていて、そこを起点に彼の美的経験論をよりよく理解し、その日常美学におけるポテンシャルについて正当に評価できるようになるのではないか。このような見立てで研究を進めたい。

Elisabetta Di Stefano, “CARCERAL AESTHETICS. ART AND EVERYDAY LIFE IN PRISON” Popular Inquiry 2: 67-77. 2021.

https://iris.unipa.it/retrieve/handle/10447/528262/1265750/DI%20STEFANO_Carceral%20Aesthetics%20POPULAR%20INQUIRY%202021.pdf

監獄のなかでの絵画制作などの芸術活動が、収監者の日常生活に与える影響について。日常美学は最近、「日常」とは結局誰にとってのものなのかという観点の見直しが進んできているようすで、この論文もその路線といえる。この論文でもデューイが引用されていて、環境と人との相互作用として芸術を捉えること、また美的なものをいわゆるアーティストの制作する「芸術」の限定しないことが、監獄での芸術制作を解釈する視点となると言われている。こういうデューイへの言及をいっぱい集めてきて、日常美学におけるデューイの位置付けについて整理したい。

映画

金子雅和監督「リング・ワンダリング」(2022年)

「東京の土地」に眠る忘れられた人々の物語が現在と交差する、という説明で、これは今後やりたい研究にとっても重要かもしれないと、イメージフォーラムに足を運んだ。結論から言うと私が思っていたのとは少し違った。もちろん、第二次世界大戦の東京、現代の建設現場など、「選手村」という単語で仄めかされる東京オリンピック2020など、東京は一つのテーマではあるのだが。しかし過去と現在の交差はテーマとして確かにあるが、sぽのなかでそこまで東京性みたいなものは強調されていなかったと感じた。御神木やニホンオオカミなども、記号的に用いられているように感じられ、土地や自然の記憶というテーマのもとで見てもあまり新味は覚えなかった。

岨手由貴子「あのこは貴族」(2020年)

ようやく観られた……とにかく逸子のことが頭から離れない。彼女があれだけ自由に生きるための手に職もまた与えられた環境によるものであって。しかも華子はするりと逸子のお手伝いをして、結局暮らせているようなのをみると、自分の自転車をあくせく漕いで走り回る美希からはやはり遠い。